鉄輪の共同温泉「熱の湯」の隣に、アーチがかわいらしい淡いブルーの建物がある。「ここちカフェ むすびの」は、まちの診療所だった建物を再生したカフェ。オーナーの河野さんは大阪出身で、15年前に別府に移住した。鉄輪の魅力を伝えるために、まちあるきのガイドなども行っているのだそう。
「こっちで勤めていた仕事を辞めて、鹿児島や宮崎に行って農業をすることも考えたんやけど、やっぱり鉄輪が好きだから。ここで何かしたいなぁと思ってたんです」。そんなときに思いついたのが、ひっそりと建っているこの建物。ぜひ使わせてほしいと建物の持ち主に話をしたところ、その人も同じくいつか再生したいと考えていたのだそう。「周りからは、飲食店を始めるのに、場所から先に決めるのはおかしいって言われたんです。でも、この建物の歴史を感じさせる佇まいと、人を惹き付ける力に魅力を感じたんです」と河野さん。
メニューを考えるのは、前職の繋がりからお店に入ってくれた田中正子さん。低温の蒸気でじっくり蒸す「低温スチーム」や、50度のお湯で洗う「50度洗い」に「天日干し」。どの品も、食材本来の旨みを最大限に引き出す調理法で丁寧に作られている家庭料理がメインで、材料を選びぬいたシンプルな焼菓子やベースのソースから手作りしたドリンク類など、どれもが優しい味。「ひとつひとつ大事そうに作るんですわ」と河野さん。料理や充実したスイーツ、メニュー表のかわいらしさから、お客さんは女性が多いかと思ったが、人生の諸先輩方も多い。プライベートな時間をゆっくりと過ごせる、まさに心地よい場所だ。
息を吹き返した建物の中には、ほんのりと温泉の香りを含んだ風が吹いていた。目の前にある「熱の湯」に桶を抱えたおじいちゃんたちが談笑しながら入っていく。すれちがいで出てきたおばあちゃんは、ほかほか赤ら顔。診療所だったころから、ここから見える風景は変わっていないのだろう。「新しい観光施設や、昔からある地獄めぐりもいいけれど、鉄輪の奥に残る昔ながらの湯治場の風景。これこそが鉄輪本来の姿やないかなと思います」
「おかえり」と、この建物を知る人は誰もが心の中で思うのかもしれない。「この建物があってこそのお店だから。この空間は、ここでないと駄目なんです」と河野さん。「そう、絶対にね」と田中さんが小さく頷く。ちょっと休憩していた建物は、再び動き出し、鉄輪の毎日を見守っている。