広間に足を踏み入れたら、時が止まっているような静かな空間が広がっていた。チクタクチクタクと、古時計がゆっくりと時をすすめる。「時間はあるよ。ゆっくり休んでいきなさい」って言ってくれているみたい。
のれんをくぐったとたんに、温泉の気配をしっかりと感じる。ほのかな温かさを帯びた空気はしっとりとやわらかくて、なんだか固まっていた心がほぐれていくようだった。脱衣所と浴室の間には、壁も扉もない。脱衣所の手すりから身を乗り出すと、U字型の浴槽が見えた。
「ここのお湯はやわくてよかろ。もう何十年も通いよる」とニッコリ笑って、昔話のはじまりはじまり。かわいいおばあちゃんともっとゆっくりお話ししたかったけれど、体はすでにのぼせる直前。
誰にも話したことないけれど
桜町通り沿いに置かれた喫茶店の看板。その矢印の中に書かれた「徒歩 左へ26歩」が妙に気になって、数えながら歩いてみた。20、21、22……あっ、本当に26歩で『アホロートル』の入り口にたどり着いた。
趣のある木造の建物の戸を思い切って開けてみたけれど、誰もいないようす。2階から物音が聞こえてきたので、上がってみることにした。
スリッパに履き替えて、よく手入れされた木の階段を滑らないようにそろそろと上りきると、キッチンからご主人と奥さんが出迎えてくれた。
「いらっしゃい。ご旅行ですか?」
そのひとことで緊張がほぐれた。本やレコードに囲まれたカウンター席に座り、ゆっくりと店内を見回してみる。
まるで時間の流れが止まったように感じるこの建物は、築100年近い元貸席なのだという。
古い建物にはいろんな記憶が蓄積されている。別府生まれの映画監督が子ども時代に住んでいたり、昔ここで暮らしていたというおばあさんが訪ねてきたりしたこともあるのだそう。そんなとき、「ここが喫茶店でよかった。久しぶりに帰って来られた」と声をかけてもらえることもあるのだとか。ふと窓の外を見ると、中庭には大きな木がのびのびと葉を揺らしている。ここで過ごしたたくさんの人たちの記憶の中にも、きっとあの木はあるのだろう。
上品な佇まいの奥さんに、ちょっと寡黙で雰囲気のあるご主人。2人はお客さんと談笑しながら、付け合わせのレタスをちぎったり、皿にごはんをよそったりしている。レコードプレーヤーから流れてくる心地よいクラシック音楽を聴きながら、注文したカレーができあがるまでを楽しく眺めていた。
「おまたせしました」
目の前に並べられたのは、じっくり炒めた玉ねぎと12種類のスパイスを挽いて煮込んでいるというインド風カレーと、セットのサラダとヨーグルト。カレーにはとり肉が入っていて、まろやかながら後から辛みが効いてくる。お米は二十穀米を使っているそうで、もっちりとした噛みごたえだ。
食後に注文したコーヒーを待っている合間に、奥さんが「冷蔵庫が置いてあるスペース、もともと何だったかわかる? 実は床の間だったのよ」と教えてくれた。「そんなにいろいろ考えてやってるわけやないんよ」と、ご主人が飄々と付け加える。「ここにあるものを活かす。手を入れすぎていないところがいいんやないかな」。
「その日、その場所に居合わせたお客さんによって、その日だけの物語ができるのよ。たまたま隣に座ったお客さんが、別府の歴史にとても詳しい人だったりね」と奥さんは微笑む。隣でコーヒーを飲んでいる男性は、長らく地元の新聞記者をしていたという。「ここは不定休なんだけど、通うと休みの日も感覚でわかってくるんですよ」と、常連さんらしいさすがの一言。
「私に話しかけているようでいて、実は、自分で自分に何かを言い聞かせているようなお客さんもいるわ」奥さんは、お客さんとの会話をそう感じることもあるのだとか。お客さんが目の前でコーヒーを飲みながら「こんなの、誰にも話したことないけれど……」と口を開いてくれる。そして「どうしてこんな話しちゃったんだろう」と言って帰っていくのだとか。
コーヒーを飲み終えると「よかったら」と、ご主人が一部屋ずつ案内してくれた。洋間にある木のテーブルは大工さんが仕立ててくれたそうだ。「これは幸運のお守り」とご主人が指差した木目の穴には、中国の硬貨が埋め込まれている。
また、階段近くにあるレコードはお客さんからのいただき物だそうで、1枚1枚に丁寧な字で解説が添えられている。「私たちには、人生における先生がたくさんいらっしゃるのよ」と奥さん。
なぜだか心を受け入れてくれるような心地よさを感じるのは、築100年の建物が持つ魅力だけではなく、夫婦がちょうどいい距離感で、ここに訪れる人々のいろいろな物語を引き出してくれるからなのかもしれない。そんな2人に会いたくて、ここを訪ねる人も多いのだろう。
アホロートル
アホロートル
住所 | 別府市楠町7-8 |
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営業時間 | 10:00〜17:00 |
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休日 | 不定休 |
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電話番号 | 0977-23-2876 |
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駐車場 | なし |
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オススメ 商品 | インド風カレー(ミニサラダ・ヨーグルト付)850円 |
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出会いが交差する場所
西法寺通りをしばらく歩いていると、大きな藍色ののれんを掲げた古い長屋が見えてきた。
そこに染め抜かれた「別府のまちの、ミュージアムショップ。」というキャッチコピーに惹かれて、中に入ってみることにした。
「ここは築110年を超える長屋の1室です。長い間空き家になっていたのですが、今は1階がセレクトショップ、2階にはアーティストのふすま絵を展示する空間として活用しています」と教えてくれたのは、このお店『SELECT BEPPU』を運営しているNPO法人BEPPU PROJECTの利光さん。
ここは約10年前、別府市中心市街地の活性化を目的に空き家をリノベーションし、工房やギャラリーなどさまざまな活動や発信のための場として活用するプロジェクトの一環で生まれた。のれんに書かれた言葉の意味を尋ねると、多様な文化や生活が混在する別府の町を美術館に見立てたとき、それに関連する商品や情報が集まるミュージアムショップのような存在であることがこのお店のコンセプトなのだと言う。
店内に入ると、木材がむきだしになった天井と白い壁に囲まれた空間にたくさんの商品が並んでいる。商品をゆっくり眺めてみると、古布を使った竹細工のバッグ、湯けむりをモチーフにした一輪挿し、別府の鳥瞰図をあしらった型染めの手ぬぐいなど、別府をテーマにしたものばかり。クラフト商品や工芸品など、手仕事で作られたものが中心なので、1つひとつ手に取って見比べながらお気に入りを探す。
古民家の風情が残る急な階段を上ると、2階には畳の部屋が2間。奥の部屋に進み、ふすまを閉じようと振り返ると、鮮やかなピンクの花の絵が目に飛び込んだ。この作品は、台湾の伝統的なテキスタイルをモチーフにしているのだそう。用意された座布団に座って、ゆっくり作品に向き合っていると、だんだん気持ちがほぐれていく。エキゾチックな花の絵は、斬新なのになぜか日本家屋によく馴染み、すりガラス越しの柔らかな光を受けて静かな空間を創りだしていた。
「観光客の方からおすすめの飲食店や温泉の情報を聞かれたり、近所にある美容室のお客様が待ち時間に立ち寄ってくれたりすることもあります。ここは、作り手とお客様と町の三者が出会う場所。ここを訪れたことで別府に興味を持って、町をめぐってもらえたたらいいなと思っています」と利光さん。
すると、1階の木戸が勢いよく開いた。「こんにちは」と元気な声の主は、常連さんらしい地元のおじさんだった。こうやってこのお店は、地域の人も旅行者も関係なく、訪れる全ての人びとを受け入れてきたのだろう。そして、これからも変わらずに人が交差する風景を見守り続けるに違いない。
SELECT BEPPU
セレクトベップ
住所 | 別府市中央町9-34 |
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営業時間 | 11:00〜18:00 |
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休日 | 火曜(祝日は営業) |
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電話番号 | 0977-80-7226 |
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駐車場 | なし |
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女将を見守る桜の木
別府石*が積み重なった塀から古い屋敷を見つめていると、「こんにちは」と小さな女の子に声を掛けられた。挨拶を返し、玄関へと続く砂利道を進む。春にはさぞかし綺麗な花が咲くであろう、桜の木はアーチのように枝を伸ばしている。タイル貼りの玄関から上がり「こんにちは」と誰もいないフロントに声を掛けると、先ほどの女の子が座っている。少し戸惑いながら温泉に入りたいと伝えると、すぐに女将がやって来て浴室へと案内してくれた。
黒光りする廊下を進んで風呂場の引き戸を引くと、思いがけず明るい光が漏れ出して来る。風にそよぐ庭木を眺めながら湯船に浸かると、やわらかい湯気が次第に空気に溶けて温かく周りを包んでいく。さわさわという葉ずれの音に混ざって、子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。和やかな笑い声を聞いていると、なんだか懐かしいような、おばあちゃんの家に遊びに来たときのような気持ちになった。
山田別荘を訪れるお客様を最初に通すという洋間で、湯あがりの体を休ませていると「いかがでした?」と女将。建物について尋ねると、昔の写真や新聞記事が詰まったスクラップブックを見せてくれた。女将の曾おじいさんは北海道で働いていて、温暖な気候と温泉が気に入ってよく別府を訪れていた。寒い所での生活で体調を崩した曾おばあさんのためにこの別荘を建てたのだという。その後「くつろぎの温泉宿 山田別荘」を営むようになったそうだ。
「古い建物が良いってみなさん言ってくれますが、古いだけあって冬場寒かったり、大変なこともあるんですよ」と笑いながら言う。
築80年以上の建物を維持し続けるのは、苦労もあり悩んだ時期もあったそうだ。そんなとき、この建物の歴史や残すことの意味を教えてくれた人がいて、考えを改めたという。
「曾おじいさんがこの別荘を建てたときも、当時の最先端のものを集めて作ったんだから、今の時代の便利なものを取り入れて、残すべきところは残すっていう選別が少しずつ出来るようになってきたかな。普段と違う時間の流れ方を感じられる空間に出来たら良いな」という女将にお礼を告げ、靴を履くために腰掛けた土間の後ろから、かわいい姉妹がお見送りしてくれた。「バイバイ」小さな手を振る女の子と一緒に、桜の木も枝先を揺らしてくれた。
*別府石…鶴見岳の噴火による土石流で運ばれてきた岩石
くつろぎの温泉宿 山田別荘
クツロギノオンセンヤド ヤマダベッソウ
住所 | 別府市北浜3-2-18 |
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営業時間 | 10:00〜15:00 (※立ち寄り湯。入浴ができない場合があるので電話で確認を)
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休日 | なし |
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電話番号 | 0977-24-2121 |
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駐車場 | 7台 |
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オススメ 商品 | 立ち寄り湯 大人500円/子ども250円 |
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