カウンターで蝶ネクタイ姿のマネージャーが、サイフォンを使ってコーヒーを淹れている。まるで大きな暖炉のように、アーチを描くレンガ造りの壁がどこか懐かしい。「昔はね、店じゅうにレンガの柱が立っていたんです。ロシアの暖炉、ペチカの中で食事をするようなイメージだったんですが、雰囲気はいいけど使い勝手が悪くてね。これは、その名残」。そういえば、店の外にもレンガの柱があった。改装したときに壊したものを装飾として再利用したらしい。

この店の名物はボルシチ。店を始めたのは、北浜で居酒屋『チョロ松』を営む森さんの奥さんなのだそう。森さんの両親が仕事で中国のハルビンにいたとき、ロシア人からレシピを教えてもらったのだという。その味を受け継ぎ、ボルシチが自慢の店『馬家溝』ができたのたそうだ。「ビーツをトマトで代用したり、日本で手に入る材料でアレンジしています。だから、正確にはこれは”馬家溝のボルシチ”なんです」。

“馬家溝のボルシチ”は、ニッコリ笑顔が3つ並んだ小鍋の中でグツグツたぎったまま運ばれてくる。仕上げにひとまわしかけられた生クリームが、みるみるスープに溶けていく。そこをスプーンでひとすくいし、ふーふー吹いて冷ましながら口に運ぶと、とても優しい味がした。大きな牛肉と野菜がたっぷり入っていて、その旨味とお母さんの愛情がスープに溶け込んでいるのだろう。添えられたバゲットをちぎって、ときどきスープに浸しながら、ゆっくりと味わう。鍋の底が見えてきたら、お皿の底を拭うように、一滴も残さずバゲットにスープを含ませて、きれいに胃袋に収めてしまった。


隣の席に、仕事帰りだと思われる3人の女性が座り、ワインとサラダを注文した。オーダーを聞いたお姉さんは厨房のそばまで行くと、学校の放送室にあるようなマイクを使って注文を伝えている。これは、よく聞こえるようにと考えられた、昔からの習慣らしい。おしゃべりに花が咲いたテーブルに運ばれてきたサラダは、山盛りのカラフルな野菜に卵が添えられた、ごちそうのようなサラダだった。名物はボルシチだけど、スパゲッティやサンドイッチ、オムライスにデザートまで、メニューは豊富。どれもひと工夫した馬家溝の味なのだそう。「焼きめしも人気なんですよ」とマスター。次に来るときは何を食べようか。もうそんなことを考えながら、店を後にした。

