趣のある木造の建物の戸を思い切って開けてみたけれど、誰もいないようす。2階から物音が聞こえてきたので、上がってみることにした。
スリッパに履き替えて、よく手入れされた木の階段を滑らないようにそろそろと上りきると、キッチンからご主人と奥さんが出迎えてくれた。
「いらっしゃい。ご旅行ですか?」
そのひとことで緊張がほぐれた。本やレコードに囲まれたカウンター席に座り、ゆっくりと店内を見回してみる。
まるで時間の流れが止まったように感じるこの建物は、築100年近い元貸席なのだという。
古い建物にはいろんな記憶が蓄積されている。別府生まれの映画監督が子ども時代に住んでいたり、昔ここで暮らしていたというおばあさんが訪ねてきたりしたこともあるのだそう。そんなとき、「ここが喫茶店でよかった。久しぶりに帰って来られた」と声をかけてもらえることもあるのだとか。ふと窓の外を見ると、中庭には大きな木がのびのびと葉を揺らしている。ここで過ごしたたくさんの人たちの記憶の中にも、きっとあの木はあるのだろう。
上品な佇まいの奥さんに、ちょっと寡黙で雰囲気のあるご主人。2人はお客さんと談笑しながら、付け合わせのレタスをちぎったり、皿にごはんをよそったりしている。レコードプレーヤーから流れてくる心地よいクラシック音楽を聴きながら、注文したカレーができあがるまでを楽しく眺めていた。
「おまたせしました」
目の前に並べられたのは、じっくり炒めた玉ねぎと12種類のスパイスを挽いて煮込んでいるというインド風カレーと、セットのサラダとヨーグルト。カレーにはとり肉が入っていて、まろやかながら後から辛みが効いてくる。お米は二十穀米を使っているそうで、もっちりとした噛みごたえだ。
食後に注文したコーヒーを待っている合間に、奥さんが「冷蔵庫が置いてあるスペース、もともと何だったかわかる? 実は床の間だったのよ」と教えてくれた。「そんなにいろいろ考えてやってるわけやないんよ」と、ご主人が飄々と付け加える。「ここにあるものを活かす。手を入れすぎていないところがいいんやないかな」。
「その日、その場所に居合わせたお客さんによって、その日だけの物語ができるのよ。たまたま隣に座ったお客さんが、別府の歴史にとても詳しい人だったりね」と奥さんは微笑む。隣でコーヒーを飲んでいる男性は、長らく地元の新聞記者をしていたという。「ここは不定休なんだけど、通うと休みの日も感覚でわかってくるんですよ」と、常連さんらしいさすがの一言。
「私に話しかけているようでいて、実は、自分で自分に何かを言い聞かせているようなお客さんもいるわ」奥さんは、お客さんとの会話をそう感じることもあるのだとか。お客さんが目の前でコーヒーを飲みながら「こんなの、誰にも話したことないけれど……」と口を開いてくれる。そして「どうしてこんな話しちゃったんだろう」と言って帰っていくのだとか。
コーヒーを飲み終えると「よかったら」と、ご主人が一部屋ずつ案内してくれた。洋間にある木のテーブルは大工さんが仕立ててくれたそうだ。「これは幸運のお守り」とご主人が指差した木目の穴には、中国の硬貨が埋め込まれている。
また、階段近くにあるレコードはお客さんからのいただき物だそうで、1枚1枚に丁寧な字で解説が添えられている。「私たちには、人生における先生がたくさんいらっしゃるのよ」と奥さん。
なぜだか心を受け入れてくれるような心地よさを感じるのは、築100年の建物が持つ魅力だけではなく、夫婦がちょうどいい距離感で、ここに訪れる人々のいろいろな物語を引き出してくれるからなのかもしれない。そんな2人に会いたくて、ここを訪ねる人も多いのだろう。
住所 | 別府市楠町7-8 |
---|---|
営業時間 | 10:00〜17:00 |
休日 | 不定休 |
電話番号 | 0977-23-2876 |
駐車場 | なし |
オススメ 商品 | インド風カレー(ミニサラダ・ヨーグルト付)850円 |