扉の向こうに映る新しい世界

たくさんの観光客で賑わう別府駅から電車に揺られて2分。東別府駅で下車すると、木製のレトロな駅舎があった。

東別府駅の周辺エリアは、その昔、浜から温泉が湧き出たことから『浜脇』と呼ばれている。ここは別府温泉発祥の地ともいわれ、鎌倉時代から温泉地として栄えたという。その街並みには、古い長屋や窓に木格子が嵌った家が建ち並び、華やかだった頃の面影を残している。

 

 

駅からの道のりは、どこか懐かしいこの町の日常で溢れている。線路沿いのまっすぐな道を行くと、古い井戸を見つけた。ブリキのバケツがかけられた井戸は、どうやら現役のよう。そばに祀られたお薬師様の前では、猫が気持ちよさそうにくつろいでいる。

細い路地を曲がると、『浜脇の長屋』と書かれた小さな看板があった。ここが今日の宿だ。

 

コの字型になった小径に入ると、手前のドアには『白い箱』、奥のドアには『天空の庭』と書かれたプレートがある。予約した『天空の庭』の外壁にあるキーボックスのボタンで、事前に知らされていた暗証番号を入力すると、蓋が開き鍵が出てきた。さっそく、木製の古めかしいドアを開けると、思わず感嘆の声が上がる。

 

 

目の前に広がる真っ青な光。『天空の庭』という名前の通り、無数の星が瞬く天空が、まるで眼下に広がっているかのようだ。ドア1枚を隔ててこんな異空間が広がっていることに驚き、胸が高鳴る。

黒光りする床には座布団が置かれていて、天空の淵に腰掛けてゆっくりと作品を鑑賞できる。無数のガラス玉の中には、1つだけ水晶玉が混ざっていると聞いたけれど、どれも一様に光を放ち、見分けることができない。

階段を上ると、ガラスの床が嵌め込まれている。このガラスの上に布団を敷いて眠るらしい。背中越しの青い光は、どんな夢を見せてくれるんだろう。

 

 

『天空の庭』の向かいの別棟にはコミュニティルームがある。ここは『白い箱』の宿泊者との共用スペースだ。簡易なキッチンにはお茶道具もセットされている。

低い位置に取り付けられた窓から覗く日本庭園を眺めながら、のんびりとお茶を飲んでいると、不意に扉が開き1人の女性が入ってきた。彼女は『白い箱』の宿泊者だという。連休を利用して別府観光に訪れているという彼女は「アート作品の中で眠るなんて、滅多にない体験だと思って」と、宿泊先をここに決めたのだそう。「もしよかったら、そっちのお部屋も少しだけ覗かせてくれない?」という彼女の提案で、お互いの部屋を見せ合うことになった。

 

 

『白い箱』は真っ白な空間。細い廊下を抜けた先には、白壁の四角い部屋があり、壁に水墨画のような作品がいくつか展示されていた。これは、ろうそくの煤で描いているのだという。近づいて見ると、小さな文字がたくさん書き込まれている。「この作家さんの乳母さんが、いつも言ってた言葉が書いてあるんだって」。どんな言葉が書いているのかはわからないけれど、この作品にはとても静かで深い愛情が込められている気がした。

 

 

この宿には浴室がなく、近くの公共温泉を利用することになっている。部屋に用意された洗面器やシャンプーなどを小脇に抱えて外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。すれ違う人はみんな、洗面器を片手に歩いている。ちょっと不便なようだけれど、こうして毎日お風呂に通うのがこの町の日常なのだろう。

 

 

近隣にはいくつかの温泉があると聞いたが、アート作品が設置されているということで、東別府駅のすぐそばにある『東町温泉』に行くことにした。コンクリート壁の2階建ての建物に、「電車の待ち時間にちょっと一風呂」のキャッチコピーが書かれた愛嬌たっぷりの看板を発見。まるで時が止まっているかのような番台で入湯料を払い、暖簾をくぐる。

階段を降りた先にあったのは、小判形の浴槽を囲むように、パステルカラーの可愛らしい壁画。色とりどりの洗面器やプラスティック製の椅子も、まるで作品の一部のよう。脱衣所の棚の上や鏡など、思いがけないところにも猫や花の絵が描かれていて、見つけるたびに思わず笑みがこぼれる。

 

 

 

熱めのお湯にゆっくりと肩まで浸かり、歩き疲れた脚を伸ばせば、旅の疲れが吹き飛んでいく。アートな夜は始まったばかり。青い光に包まれたあの部屋で、どんな一夜が待っているのだろう。明日の朝、目が覚めたらどんな世界が広がっているのだろう。

浜脇の長屋

ハマワキノナガヤ

住所別府市浜脇地区1-357-3
電話番号0977-22-3560
駐車場なし